星芽寮交響曲
17話『温もり』
7月9日 朝
「‥‥もう‥‥朝なんだ‥」
朝‥カーテン越しの、明るい太陽の光を感じて、僕は思わず呟く。
さっきまで夜だと思っていたのに‥いつのまにか朝が来ている。
‥朝なんて来なくても良いのに‥‥ずっと夜で‥眠っていられたらいいのに。
ふと‥頭の中に現実逃避のような、そんな思いが浮かんできて‥
僕は慌てて首を左右に振る‥とは言っても、ベッドに横になったままだから、ロクに振れないけど‥。
とにかく‥幾らショックな事があったからって、悪い方へと考えるのはよそう。
思えば、昨日一日僕は‥ずっと落ち込んでいて、みんなにも心配を掛けてしまった。
今日は‥うん、いつもの僕に戻って、そして‥。
‥いつもの僕‥か‥。
いつもの様に、お仕事して‥本を読んで‥みんなとお喋りを楽しんで‥そして‥
‥脳裏によぎるのは、キルクさんの事‥
それに連鎖するように、頭の中に浮かんでくる‥あの光景。
キルクさんと‥ケイトさんの‥‥ああ‥‥。
僕は必死になって思い出さないようにするけど‥嫌でも頭に思い浮かんでくるんだ。
僕の聞いた事の無い‥甘い声を出すキルクさん‥
気持ちよさそうな声を上げる‥キルクさん‥ああ‥‥
どうして‥どうして。
どうして‥‥キルクさん‥‥。
やっぱり僕が‥あの時、キスをはねのけたから?
あの時、僕がキルクさんのキスを‥受け入れていれば‥。
‥‥止めよう。
そんな事を考えたって、今は‥どうしようもない‥。
だけど‥‥だけど‥‥。
それでも脳裏に浮かんでくるんだ‥あの光景が‥
嫌だ‥もう、考えたくない‥あんな事‥思い出したくない‥!
思わず僕は上半身を起こして‥そして‥首を左右に振ってみる。
忘れたい‥忘れたい‥忘れろ‥忘れろ‥‥そんな風に何度も念じて‥でも‥
‥‥忘れられなくて‥
気がついたら、また‥僕の目からは涙が溢れていた‥。
ぽろぽろと‥涙が‥うう。
ダメ‥泣いちゃ、ダメだ。
こんな所、ヤダンにでも見られたら、また‥心配を掛けちゃう。
昨日だって、ずっと心配させて‥‥あ、ヤダン‥まだ目を覚ましてないよね?
僕は慌てて涙を拭くと、そっと‥隣で寝ているヤダンを振り返る。
ヤダンは‥まだ眠っているみたいで、静かに寝息を立てていて‥良かった。
‥とにかく‥今日はもう少しだけ元気になろう‥そう思っても、本当になれるものなのかは分からないけど‥
みんなに心配を掛けないようにしよう‥うん。
‥キルクさんの事は、今は‥今日は‥考えないようにしよう。
‥ちゃんと答えを出さなきゃいけない問題だけど‥今は置いておこう‥。
今は‥今だけは。
とりあえず‥今が何時なのか、確認しようかな。
昨晩は早くに寝たし、今はまだ早い時間だと思うけど‥とりあえずは。
そう考えて、僕がベッドから降りようとした時‥
「ん‥んん‥‥ふぁあああ‥‥」
ヤダンがそんな声とと共に、大きなあくびをして‥ゆっくりと身体を起こしてくる。
どうやらヤダンも目が覚めたみたいだ‥うん、まずはヤダンに元気よく挨拶‥だね。
‥心配させないように‥元気に。
「‥お‥おはよう、ヤダン。‥気持ちの良い、朝だね」
その時の僕は‥ぎこちないながらも、微笑みを浮かべて‥元気に挨拶ができた、と思う。
‥言葉はちょっと、白々しいかな‥なんて思ったりもしたけど。
「ん‥あぁ、おはよう、ピノ。‥良い朝だな」
最初はねぼけまなこを擦っていたヤダンだったけど‥
僕の言葉に、ぱっと目を見開いて。
そして‥嬉しそうに返事をしてくれたんだ。
これなら‥‥うん、これなら。
きっと大丈夫‥今日は大丈夫。
きっと一日、元気に過ごせる‥なんて、僕は思っていたんだけど‥
‥そんな僕の考えは、早々に崩れてしまったんだ‥。
「ふぅ‥ようやくお昼‥かぁ‥」
午前中の仕事をなんとか終えて‥僕はようやく一息つくことが出来た。
とは言っても、本当に一息ついている暇は無いんだ。
本当なら、昼食を食べている時間‥そんな時間まで、午前中のお仕事がずれ込んでしまって。
だから、食堂へも急いで行かなきゃいけないくらいなんだ。
‥それでも、昨日にくらべればどれだけマシか分からない。
昨日は‥ずっとショックを引きずっていて、全然仕事が手に付かなかった‥から。
それでもなんとか仕事を終えられたのは、ディル達の助けがあったから‥だよね。
でも、今日はそんな訳にはいかない。
気をしっかりもって、仕事を進めないと‥って思うんだけど‥。
僕自身が、まだ本調子じゃないのかな‥なんだか仕事が進まなくて‥。
いや‥本調子とか以前の問題だね‥そう、原因は調子じゃなくて他にあるんだ。
仕事の合間に‥いや、仕事をしている最中でも、ふとすれば‥頭の中に浮かんでくること‥。
それは‥キルクさんの事。
一昨日の銀河祭の顛末が、どうしても頭から離れないんだ‥。
考えている場合じゃない、仕事に集中しないと‥とは思っていても、
いつのまにか‥僕は考えてしまっているんだ‥。
‥あぁ、僕は‥
「‥ディル、ちょっとええか?」
またしても沈み込んでしまいそうな‥そんな意識の中で。
僕は声を掛けられたのを引き金に、はっと我に返ったんだ。
その声、そしてそのしゃべり方‥声を掛けてきたのが誰なのかなんて、すぐに分かるよね。
僕は咄嗟に笑顔を用意して‥ディルの方へと向き直ったんだ。
「あ、うん、何かな?ディル」
見ると、ディルは‥なんだかいつもと違う、真剣な表情をしていて‥。
‥やっぱり僕、いつもと違うから‥だからディルは心配して‥
‥いや、昨日と今日の仕事の進め方を、注意しにきたのかもしれない‥
なんて、いくつかの可能性を僕は考えたんだけど‥そのどちらでもなかったんだ。
「ああ‥いや、今日、仕事が終わった後、ちょっと時間くれへんか?」
仕事を終えた後に‥時間。
その真剣そうな表情からしても、「ユランのお店に寄っていこう」という話じゃなさそうだし‥
‥もしかしたら‥‥いや。
とにかく、僕に何か話がある、って事だと思うし‥
今日、仕事を終えた後は‥特に用事や約束だって無いし‥うん、大丈夫だね。
「うん、良いよ。それじゃあ、仕事を終えた後‥えっと‥」
「ああ、迎えに来るから、待っといてくれたらええ」
ディルはそう言うと、ゆっくりと自分の持ち場へと戻っていって‥
‥なんだかディルも、いつもと違って‥真剣そのもので‥。
あ、いや‥仕事中のディルはいつだって真剣だよ。
でも、普段お話をするときのディルは‥どことなく優しい表情をしていたものだけど‥
今日のディルは‥そう‥って、あっ!
いけない、僕のお昼御飯の時間が終わっちゃう‥早く食堂に行かないと。
ディルの事も気になっていたけど、それよりも‥と、僕は慌てて食堂に向かったんだ。
「あの‥また、仕事手伝わせちゃって‥ごめんね」
仕事を終えた後‥僕とディルは、二人揃って歩き出した。
‥どこに行くのかは分からないけど‥先行するディルの背中を追う様に、僕はてくてくと歩いていく。
そんな、歩き始めた中‥僕がディルに言った言葉がこれだったんだ。
‥そう、昨日に引き続き、今日も‥午後の仕事がなかなか終わらなくて。
そんな僕をディルが見かねて、手伝ってくれたんだ。
本当に‥いつもディルには迷惑ばかり掛けて‥ごめんね、ディル‥。
そんな僕の言葉に、ディルは顔だけをくるりと僕の方に振り向かせて‥
「ん‥いや、かまへん。誰でもそういう時はあるさかいにな」
いつもの微笑みを浮かべながら、そう言ってくれたんだ。
ああ、いつものディルだ‥いつもの、優しく微笑んでくれる‥ディルだ。
‥なんて、僕は感傷的に思ってしまって。
だって、今日は一日を通して、真剣な表情のディルばかり見ていたから‥
だから、こうして微笑んでくれるディルを見ると‥うん、なんだかとっても安心するんだ。
‥でも‥僕達が目的地に着いて、話を始める時には‥
きっとディルはまた、真剣な表情になるんだろうな‥。
‥一体僕は、何を言われるんだろう‥。
まぁ‥考えられる事は、幾つか‥あるけれど。
そんな風に考えながらも‥僕はディルの後ろをついていったんだ。
それにしても‥ディルはどこに行くつもりなんだろう‥?
「夕陽に染まる海‥かぁ‥」
その光景を見て‥僕は思わずそんな言葉をこぼしていたんだ。
ここはウィンダス港‥目の前には、夕陽色に染まる海が広がっていて‥とても綺麗だ。
‥昔、子供の頃は‥こうして海をじっと見た事もあったけど‥
いつからか、足を止めて海を見るなんて事‥無くなっていたかな‥。
「ボクもな、この海は‥よう見にくるんや。‥故郷の海と、よう似ててな」
ウィンダス港の一角‥人通りも少ないこの場所で。
ディルはそう言って、海を見つめている‥「懐かしいな」っていう顔をしながら。
僕も、そんなディルの隣に立ちながら‥同じ様に海を見つめていたんだ。
「なぁ、ピノ‥辛い時‥悲しいときはな、泣いたらええんやで」
「えっ‥」
海を見ている僕に対して、突然‥ディルはそんな事を言ってきて。
僕は慌てて‥ディルの方を見たんだけど‥。
‥その表情は、いつの間にか‥真面目な顔に変わっていて‥
ディル‥‥。
「ボクにはな、昨日今日と、ずっとピノが泣いてる様に見えるんや‥。
泣きたいのに、泣きとうてたまらんのに‥それをぐっと堪えて、辛そうにしてる‥そんな風に見えるんや」
僕が‥泣いてる‥?
そんな‥そんな、そんな事を言われても‥僕は‥。
‥僕は何も言えない‥。
そうだよ‥なんて言えないし‥泣いてなんかないよ‥‥っていうのも‥何だか違う様な気がする‥
だから、僕は‥‥僕は、何も言えない‥。
何も言えず、俯いている僕に、ディルは‥すっと身体の向きを変えて‥
‥そう、僕の方を向いて‥言ってきたんだ。
今度は‥とても優しい表情で。
「でもな‥そういう時は泣いたらええんやで」
「ディル‥」
そんな‥泣いたらいい、なんて言われても‥。
僕は‥僕は‥‥泣いちゃだめだ、ってずっと‥思ってたのに‥。
みんなに心配を掛けるから‥
みんなを困らせるから‥
泣いちゃ‥だめだって‥
僕は‥必死で‥我慢して‥
そう考えていたのに‥でも、ディルは‥。
‥ディルの言葉に、僕の中の‥何か‥涙を抑える何かが、壊れていく‥
身体の中の涙が‥徐々に込み上がってくるのが分かる‥
でも‥‥でも‥‥
「涙はな、雨‥なんや。‥目から溢れる雨‥それから‥心の悲しみを、辛さを流してくれる‥雨。
泣いて‥悲しみを、辛さを‥流したらええねん。‥それが、過去になって‥いつかは思い出になる、それまで‥」
雨‥涙は‥雨‥悲しみを‥辛さを‥流してくれる‥雨‥。
悲しみ‥‥辛さ‥‥
‥‥キルクさん‥
キルクさん‥‥どうして‥‥どうして‥‥。
僕は‥頭の中が‥もう、あの時のことで一杯になってしまって‥
‥気がついたら、声を出して泣いていたんだ‥。
俯きながら‥延々と涙を流す僕‥。
ディルの言う通り、まるで雨の様に‥。
そんな僕を‥ディルはそっと‥肩を抱いてくれて‥。
そんなディルの優しさに‥甘えるように。
僕はディルの胸に‥顔を埋めて泣いたんだ。
ディルもまた、顔を埋める僕の‥その背中に手を伸ばして、包み込んでくれて‥。
‥ディルの身体が‥手が‥温かかった‥
ディルの触れる場所全てが、とっても‥温かくて‥
「泣いたらええ‥気の済むまで泣いたらええんや‥」
声を上げて泣き始めた僕を、ずっと抱いていてくれたディル‥。
優しい声、優しい言葉だって掛けてくれて‥。
僕は‥ディルの言葉に甘えるように、ずっと‥泣いていたんだ‥。
5分‥10分‥もっと長く‥‥いや、もっと短かったのかもしれない。
ずっと泣いて‥泣いて‥泣き続けて。
ようやく涙が収まりかけてきた頃に‥僕はディルの胸から少しだけ顔を離した。
そして、ちょっと痛くなった目元を撫でて、涙を拭ったんだ。
多分、目が真っ赤になっているんだろうけど‥まだ、俯いたままだし‥見えてないはずだよね。
「ご‥ごめんね、その‥みっともないところ、見せて‥」
僕は、真っ赤になった目をディルに見せないように‥俯いたままでつぶやく。
‥いや、違うよね‥これだけ恥ずかしいところ見せたんだもの‥もう、恥ずかしい事なんて無いよね。
僕は言葉を言い終えた後で、ゆっくりと顔を上げて‥ディルの方を見たんだ。
そうしたら‥思いの外ディルとの距離が近くって、びっくりしちゃった。
ディルもそれは同じだったみたいで、慌てて‥僕の身体から手を放して。
ふふ‥ディルってば、今になって‥照れたように顔を赤くしてるんだから。
‥でも‥ディルの言う事は本当だね。
たっぷり泣いたお陰で、少しだけ‥うん、全部じゃないけど、少しだけ‥
心の中から「悲しい思い」「辛い思い」が‥流れたような、そんな気がする。
「そ、そんな‥みっともない事なんて無い。
ボクの事を、ピノが友達や思てくれてるから、せやから‥泣いてるトコを見せてくれてるんや。
そう思うと、ボクは嬉しいんやよ。‥こんなん言うたら、泣いてるピノに不謹慎やけどな‥」
照れながらも‥そんな優しい言葉を掛けてくれるディル。
友達‥友達だから‥かぁ。
うん、そうだよね‥僕達、大事な友達同士だから‥だから‥
「ふふ‥ありがとう‥ディル‥」
僕は‥ようやく笑顔を見せて、ありがとう‥って言う事が出来た‥と思う。
‥まだ、本当の笑顔じゃない‥いつもの60%位の笑顔だけど、それでも‥。
でも、ふと見たディルの顔は‥もう、照れている顔じゃあなかった。
また‥真面目な顔になっていたんだ。
‥まるで「まだ話す事がある」とでも言うかのように。
「なぁ、ピノ‥‥その、蒸し返すようで‥悪いんやけど」
真面目で‥真剣な表情のまま‥
勿論、声だって真剣そのもので‥ディルは話し始める。
その言葉に、ディルもあまり話したくはなさそうな‥そんな類の話だという事は、察しが付くけど‥
具体的にどんな話なのかは、勿論分かる筈も無くて。
一体、何だろうと考えながら‥僕はただ、じっと‥何も応えずに、ディルの次の言葉を待った。
「その‥良かったらな、話してくれへんか‥?ピノの‥悲しい事、辛い事。
ボクは、ピノが‥まだ何か大きいモン抱えてる様に思うんや‥。
さっきの笑顔にしても、なぁ‥まだいつもの笑顔やない‥そう思うから‥」
ディル‥よく見てるんだ‥僕の事。
その‥正直言ってびっくりしちゃった‥だって、さっきの笑顔の事まで、分かっちゃうなんて。
でも、その‥僕の‥‥悲しい事、辛い事を‥話すなんて‥。
悲しい事、辛い事‥‥勿論それは‥‥キルクさんとの事で‥
ディルの言う通り、僕の心の中でまだ「重い記憶」として残っているものだ‥。
でも‥でも、それをディルに話すなんて‥
そんな‥‥事‥‥
‥‥‥ううん。
ディルなら‥‥ディルになら。
話しても良いんじゃないかな‥。
こんな事を話すのは、恥ずかしくて‥本当は誰にも言いたくなんて無い事だけど‥
それでも‥‥‥それでも‥‥。
ディルの言う通り、話す事で‥少しは楽になれるのかも知れない‥。
‥心の整理がつくのかもしれない‥。
そんな風に、思ったから‥
‥‥だから。
僕は決心して、ゆっくりと‥話し始めたんだ。
僕が、キルクさんと付き合っていたこと‥
銀河祭の日も、キルクさんと一緒に過ごして‥
‥でも、色々とあって‥結局、キスを求められても拒んでしまったこと‥
謝ろうと、鼻の院に行って‥そこで‥
‥キルクさんと、別の人との‥えっちを見てしまったこと‥
淡々と‥僕は話したんだ‥。
勿論、話している間に、振り返って‥色々と思うことはあったけれど。
‥さっきあれだけ泣いたから、かな‥悲しく思うことは無かったんだ。
ううん、むしろ‥ディルに聞いて貰って、心がラクになった様な気さえする。
本当に‥ディルの言う通り、だね。
一方のディルは‥何も言わずに、僕の話を最後まで聞いてくれて。
そして‥最後に言ってくれたんだ。
「そう‥やったんか‥‥ピノ‥辛かったやろうな‥。
‥ごめん‥ボク、あれだけ格好付けた事言うといて、何やけど‥‥上手い言葉が‥見つからんねん‥」
僕の話を聞いて‥色々と感じた事もあるんだと思う。
最後には俯いたまま‥優しくそう言ってくれたディル。
まるで僕の気持ちを分かってくれている様に‥とても悲しそうな声‥申し訳なさそうな声で。
ディルは‥辛そうに「何も言えなくてごめん」なんて言ったけど‥ううん、それは違う。
‥あんな話を聞かされて、びっくりしただろうから‥すぐに浮かんでくる言葉なんて無いだろうし、それに‥
「ううん‥いいんだ。ディルに話しただけでも‥楽になったんだから」
‥僕はディルに話を聞いて貰って‥本当に心が楽になったんだ。
これは嘘じゃない‥少しだけ‥ううん、沢山の‥心の中の重みが取れた様な、そんな気がして。
でも‥‥
「そう‥か」
楽になった一方で、少し‥少しだけ、気がかりなことがあって‥。
それは‥‥うーん‥‥
‥うん、やっぱり聞こう‥聞いてみよう。
「うん‥‥でも、ディルは、その‥」
‥聞こうと思ったのは良いけど‥
やっぱり僕には意気地が無いや‥肝心な所で、声が出て来ないんだから。
「うん‥?どないしたんや?」
ディルは‥再び顔を上げて、僕の方を見つめてきたんだ。
その表情は、心配そうな顔をしていて‥
うん、もう一度‥気持ちをしっかり持って、ディルに話そう‥うん!
「‥ディルは、今の話を聞いても、僕の事‥友達だと思ってくれる‥?」
僕の‥心配したこと。
それは、もしかしたらディルが僕の事を‥気持ち悪く思って、離れていってしまうんじゃないか‥って事。
だって‥だって、僕は‥
「え?どういうこっちゃ‥?」
心配している僕を余所に、ディルは気がついてないのか‥不思議そうな顔をして、首をかしげている。
‥気がついてない‥いや、気にしないでいてくれてるのかな‥
だったら‥‥いやいや、ちゃんと言っておこう。
「その‥僕、男の人と付き合ってたんだよ?‥それでも、僕の事‥」
そう‥僕がキルクさんと付き合っていた事‥つまり‥
僕は男の人‥同性と付き合っていた事になる。
‥そういうのって、やっぱり‥気持ち悪がられないかな‥って思って‥。
でも、僕が‥言葉を終える前に。
そう、ディルに「それでも僕の事、友達と思ってくれる?」って‥言う前に。
ディルは答えてくれたんだ。
「‥なぁ、ピノ。人が人を好きになるのは、自然の事や。‥例えそれが、異性であっても‥同性であっても。
せやから‥別にそんな事はどうでもええねん。どっちであれ、ピノはピノ‥やろ?」
最初は真剣に‥そして徐々に、優しく微笑み始めて‥
そんな‥そんなディルの言葉に‥そして笑顔に‥
僕は嬉しくて‥また涙がこぼれそうになってしまう。
‥勿論それは、うれし涙だけど‥ふふ、ちょっと泣き虫すぎるよね、僕。
だから今は‥ちょっとだけ涙を堪えて。
代わりにちゃんと‥お礼を言おう。
「‥‥うん‥ありがとう、ディル‥本当に‥本当に‥」
‥友達に‥大事な‥大事な友達に。
「ほら‥たっぷり泣いて、疲れたやろ?‥ちょっと時間遅うなったけど、ユランの店でも寄っていこか?」
「‥うん!」
涙を堪えて「ありがとう」を言う僕に‥ディルはいつもの笑顔で話し始めたんだ。
いつものディルの笑顔。
いつものユランのお店。
いつもの‥二人並んで歩く道。
ああ‥いつもの‥いつもの僕達に戻れた‥そんな気がして。
その時‥僕は‥久しぶりにいつもの笑顔を出せたんだ。
‥‥でも‥‥
でも、そんな「いつも」の中に‥少し‥そう、少しだけ。
少しだけ、「いつもじゃない」ものが混ざり始めていたんだ。
それは‥少し前に僕が感じた感覚。
僕の背中に、温かなディルの手の感触があって‥
更にはお腹や、顔の方にも、ディルの温かな身体の感触があって‥
温かさに‥そして優しさに‥‥包まれている様な感じ‥
そんな感じが、ずっと‥今でも身体に残っているような、そんな‥
‥って、ぼ、僕、何を考えてるんだろう‥
本当に‥‥もう‥。
「あ、ディル‥それにピノ!こっちだヨ、こっチ!」
ユランの勤めているお店に入ってすぐに。
フリストの驚きと‥そして嬉しそうな声が聞こえてくる。
僕とディルはフリストの座るテーブルの方へと向かって‥あ、ユランも一緒みたいだ。
そうか、いつもよりも遅い時間だし‥ユランはもう、仕事の終わる時間なんだね。
「やっ、フリスト‥それにユランも」
僕はいつものように、手を挙げて挨拶をすると‥にっこり二人に微笑んでみる。
‥でも、二人は顔を見合わせて、不思議そうな表情をしてる‥まぁ、仕方無いかな。
昨日二人と会ったときは、あんな状態だったもんね‥。
でも、今はもう大丈夫‥って、どうやって説明しようかな‥なんて僕が考えている間に。
「ピノ、座って待っといてや。ボクがケーキとか買うて来るさかいに」
ディルはそう言うと、さっさとケーキの並んでいるディスプレイの方へと行ってしまったんだ。
折角のディルの好意だし、僕は甘えることにして‥テーブルに着いた。
‥さて、座ったのは良いけど‥なんて言おうかな‥どこからどこまで言おうかな‥。
「えっと‥」
「ね、ピノ‥元気になったならさ‥ぼくはそれで良いんだ。‥言い辛い事とか、言わなくていいんだよ」
とりあえず‥と、話を切り出そうとした僕に。
すかさずユランが言葉を遮って‥そんな事を言ってきたんだ。
‥いつもの様に‥ううん、いつも以上に優しい言葉で。
更に‥
「そうそウ!オイラも‥ピノが元気で居てくれたら良いんダ。それだけで‥サ」
フリストだって、嬉しそうに‥そう言うんだから‥参っちゃうな。
僕‥優しい友達に囲まれて‥僕‥本当に幸せだ‥。
「‥ごめんね‥心配してくれて‥。‥ありがとう、ユラン‥フリスト」
泣き虫の僕は、また涙をこぼしそうになるのを‥なんとか堪えて。
‥「ありがとう」って言う僕に‥二人は優しく微笑んでくれる。
本当に‥僕は‥‥
「あ、そうだっタ!‥もう、要らないかもしれないけどサ‥」
感傷に浸る僕に‥フリストはまるで何かを思いだしたかのように、そんな声を上げて。
そして‥脇に置いてあった鞄を取り出すと、なにやらごそごそ‥と鞄の中を探し始めたんだ。
鞄の中から、一体何が出てくるんだろう‥そんな事を考えながら、フリストの様子を見ていた僕。
ややあって、フリストは‥一冊の本を取り出したんだ。
‥少し古めだけど、どことなく高級そうな‥そんな本を。
「あのサ、ピノ‥‥良かったら、これ、あげるヨ。‥これを読んでサ、元気になってくれたら‥って思ったんだけド‥。
ふふ、もう元気になったみたいだし、要らないかもしれないけどサ」
フリストはそう言うと、その本を僕に手渡してくれて‥
‥その表題を読んで、僕は本当にびっくりしたんだ。
「え‥えええっ‥‥ふ、ふ、フリスト、これって‥!」
僕が思わず‥声を裏返す位、驚きの声を上げた書物‥それは‥
あ‥その前に、少しだけ説明するね。
エニッド・アイアンハートと‥グィンハム・アイアンハート‥という人物は知っている‥よね?
エニッド・アイアンハート‥各地の地図を作成し、地歴書を残した人物で‥僕も彼女の本は、結構読んだことがある。
で、その父グィンハム・アイアンハートも‥娘が各地の地図を作成する以前に各地を回り、地図を作成していた人物だ。
専らグィンハム・アイアンハートはクォン大陸の地図を作成し‥
その意志を継いだエニッド・アイアンハートが、ミンダルシア大陸の地図を作成した‥って事で有名だね。
そんなグィンハム・アイアンハートは、若かりし頃‥東エラジア社の外洋交易船、その船長としても名を馳せている。
その船長時代にあった、波瀾万丈な冒険の数々が記された書物‥それがフリストの持っていた書物だったんだ。
しかもこの書物、クォン大陸・ミンダルシア大陸にある四国では‥まず手に入らない。
理由は知らないけれど、発禁処分を受けていて‥目の院の図書館にすら無いくらいなんだ。
‥でも、どうしてそんな本をフリストが持っていたんだろう‥?
「すごい‥僕、初めて見たよ‥。けど、フリスト、これをどうやって手に入れたの‥?」
不思議そうに尋ねる僕に‥フリストは「うーん」と少し考えると、思い出しつつも話をはじめたんだ。
「‥ん‥オイラはサ、兄さんに貰ったんだヨ。
確カ‥そうそウ、以前にアトルガン皇国の方で過ごしていた時に、手に入れたんだっテ。
なかなか面白いかラ‥って言って、くれたんダ」
なるほど‥フリストのお兄さんは、冒険者をしてる‥って言ってたっけ。
冒険者なら、アトルガン皇国の方にも行けるだろうし‥そうなると‥って訳かな。
よくよく見ると‥本の装丁とか、紙質に‥アトルガン地方の特徴が出てる。
‥それはともかくとしても、フリストがこうして大事にしている本‥貰っても良いのかな‥。
普段フリストはあんまり口にしないけど、フリストの「お兄さん」を思う心は‥なんとなく分かる。
‥「お兄さん」の話をするときは、本当に嬉しそうにしているものね。
そんな大事なお兄さんに貰った、しかも大事な本を‥‥うん、やっぱりダメだよ。
「そんな大事な本、僕は貰えないよ‥」
「‥ん~、でモ、オイラはピノに元気になって欲しくってサ‥‥あ、でももう元気なのカ‥あ~、でモ‥」
やんわりと断る僕に‥フリストも少しだけ困った表情を見せる。
加えて、当初思っていた「僕の状態」が今の状態とは違う‥
でも、やっぱり僕に渡したいような、そんな気持ちもある‥のかもしれない。
‥そりゃまぁ、僕だって読みたい事は読みたいけど‥
でも‥‥うーん、どうすれば‥。
一体どうすればいいのか、僕が考えていた‥その時。
「ね、ピノ、フリスト‥それじゃあさ、フリストがピノに本を貸す、っていうのはどう?」
そう声を掛けてきたのが‥ユランだ。
なるほど‥貰うんじゃなくて、あくまで少しだけ貸して貰う‥と。
そうすれば、僕だって本を読めて、元気になるし‥いや、もう元気なのは元気だけど‥
とにかく、読んだ後はフリストに返すから、フリストだって大事に持っていられるし。
凄い、ユラン‥とっても良い考えだね!
「ン、それ良い考えだナ。そうしよウ!」
「うんうん!ユラン‥とっても良い考えだよ。ふふ、僕、楽しみに読ませて貰うね」
ユランの提案に、僕は勿論‥フリストも乗り気みたいで。
僕とフリスト‥そしてユランも、良い案が見つかったことで‥三人そろって笑っていたんだ。
「ん‥なんや、ごっつ楽しそうやな」
三人の笑い声が重なる中‥丁度ディルがトレイを手にやってきて。
まるでウェイターさんの様に、僕の前に白いケーキと‥そしてオレンジジュースを置いてくれる。
目の前に置かれたケーキは‥あれ、これは‥新作なのかな?今まで見た事無かったと思うけど‥
「これは‥何のケーキかな?僕、初めてみたけど‥」
僕はそう言いながらも、置かれたケーキをじっくりと見てみる。
一見すると普通の‥そう、ガトーオーフレースの様なケーキ‥だけど。
スポンジを覆っているのは生クリームじゃないようだし‥その‥‥イチゴだって載ってないし‥。
うーん、スポンジの周りに薄く‥まるでチョコレートケーキの様に、「何かのソース」が掛かってる‥。
あ、でも‥色が白いし、香りもどことなくチョコレートじゃない‥し‥。
‥何だろう?
「あっ、ディル‥それを選ぶなんて流石だね。
ピノ、それは一昨日の‥銀河祭限定‥いや、もう限定じゃ無くなったけど‥とにかく、新しいケーキだよ」
ユランの言った「銀河祭」という言葉に‥思わず「あっ」って思ったけど‥
不思議‥自分で思うほどには気になっていないみたい。
もう‥あの時の事を瞬時に思い出すことも無いし‥。
ふふ、これもディルのお陰だね‥って、それよりも。
新しいケーキ‥かぁ‥
新しいケーキを、色々な角度から見つめる僕に‥
ユランはケーキの説明をしはじめたんだ。
「銀河祭‥その由来の舞台になった「河」‥勿論、空の星々だけど‥あれって、今のぼく達は「ミルキーウェイ」って呼ぶよね。
それになぞらえてね‥ケーキにふんだんにヨーグルトソースが掛かっているんだよ」
なるほど‥ミルキーウェイ、ミルクの道‥だから、ミルクから出来たヨーグルトをソースとして‥かぁ。
でも、ヨーグルトって‥イメージ的には酸っぱいような気がして‥
‥ケーキに合うのかな?
「ふふ、このヨーグルトケーキは‥甘いモンが苦手のボクでも、食べられたんやで‥‥少しやけど」
そう言うディルの方を見ると‥あっ、ディルも僕と同じケーキを持ってきてる。
‥そうかぁ、ディルでも食べられる‥しかも、こうして再び食べようとしている、となると‥
甘さはともかくとしても、ふふ‥味は良さそうな気がするなぁ。
「じゃあ‥早速‥いただきます!」
僕はきちんと両手を合わせて、「いただきます」のポーズを取ると‥
フォークでヨーグルトケーキを少しだけ崩して‥口の中へと運んだんだ。
‥口の中に広がる、ヨーグルトの酸味と‥スポンジの優しい味。
上手く表現できないけど‥その美味しい味は、僕の心をとても‥満たしてくれたんだ。
‥ううん、ケーキだけのお陰じゃないよね。
元気づけるために、本を僕に貸してくれたフリスト。
元気がでるから、と‥スィーツを勧めてくれたユラン。
そして‥‥僕の心を優しく包んでくれた‥ディル。
‥フリスト‥ユラン‥‥ディル‥
みんなの温かな思いのお陰で僕の心は‥‥もう‥もう、大丈夫。
‥ありがとう‥‥みんな、本当に‥ありがとう。
「ふふ‥そうだね、もう少しで‥‥あ」
ユランの勤めているスィーツショップからの帰り道。
三人でお喋りをしながら、星芽寮にたどり着いた僕達は‥
いつもの様に、玄関口に設置されたポストを見る。
‥僕の部屋のポストに手紙があるのを見つけた僕は、そっと取り出して‥思わず息をのんだ。
てっきり、ディルに届いたいつもの手紙‥そう、彼女からの手紙かと思ったんだけど‥
‥違ったんだ。
それは僕宛の手紙で‥そして‥‥
‥‥キルクさんからの手紙だった。
きっと、僕はその時‥なんとも言えないような、複雑な表情をしていたんだと思う。
そして、じっと‥手紙を握りしめていたから‥
「ん?どないかしたんか、ピノ?」
僕の事をきっと不審に思ったんだろう‥
ディルが横から、僕の顔を覗き込む様にして‥尋ねてきたんだ。
そんなディルの声に‥僕はハッと我に返って。
そして‥
「あ‥う、ううん、なんでもないよ。さ、部屋に戻ろう」
僕は慌てて誤魔化すようにそう言うと、なんでも無いフリをしながら‥
先頭を切って、部屋への道を歩き始めたんだ。
‥部屋に戻ると、幸いにも‥ヤダンの姿は無かった。
窓から見える時計台を見て‥なるほど、この時間ならきっとランニングの最中だろう。
まだ‥ヤダンが戻ってくるまでに(いつも通りなら)時間はある。
だから‥‥だから。
僕は片手に握りしめた手紙に‥そっと視線を落とした。
この手紙には、何が書いてあるんだろう‥。
‥でも、何が書いてあっても‥僕の心はもう‥。
そうだ、僕の心はもう決まっている‥決まっているんだ。
あの‥ディルと話をした、その時から。
でも‥
「‥でも、読まない訳にはいかない」
部屋には誰も居ない‥勿論、誰に言う訳でもない‥
それでも、口に出して言う事で‥自分に言い聞かせるようにして。
僕は、机に向かう間も惜しい‥とでも言うかのように、扉にもたれたまま‥手紙の封を開けた。
‥中には‥羊皮紙が一枚。
おそるおそる‥震える手でそれを取り出して‥そして‥
‥僕は文面を読み始めたんだ。
親愛なるピノへ。
この様な形で告げるのは、本意ではないけれど、僕達の関係を終わりにしよう。
そもそも、そこまでの間柄でも無かったのかもしれないが、区切りは付けたいと思っている。
僕はもう、星芽寮に戻る事も無い。これは互いにとっても好都合だろう。
では、ピノに幸あらんことを。 キルク・ラトクリク
あまりにも‥想像通りの内容‥でも、簡潔すぎる文面。
その内容に‥僕は思わず、ほっと一息を着いた。
‥不思議と悲しみとか‥怒りとかの感情はこみ上げてこない。
ただ、なんとなく‥‥いや、良いんだ。
僕は手紙を手に、自分の机へと向かうと‥
‥そっと引き出しの奥に、その手紙をしまい込んだ。
もう見る事も無いかもしれない、でも‥なんだか捨てる気にもなれなくて。
そして‥机に座った途端‥疲れがどっと押し寄せてきたような、そんな感覚が僕を襲ったんだ。
仕事の疲れ‥生活の疲れ‥そして‥‥恋の疲れ。
当分‥もう当分は‥
‥恋なんてしなくてもいい‥
なんとなく‥僕はそんな風に思い始めていたんだ。
それから数日経ったある日、フリスト経由で‥キルクさんがアトルガン皇国へと渡った事を知った。
アトルガン皇国で、調査員として‥数年間といった長期の在住勤務に就いたんだとか‥。
‥もしかしたら、キルクさんはそれを知って、事前に‥‥
‥‥いや、もう過ぎ去ったことなんだから‥。
だから‥‥
‥さようなら、キルクさん‥。
朝‥カーテン越しの、明るい太陽の光を感じて、僕は思わず呟く。
さっきまで夜だと思っていたのに‥いつのまにか朝が来ている。
‥朝なんて来なくても良いのに‥‥ずっと夜で‥眠っていられたらいいのに。
ふと‥頭の中に現実逃避のような、そんな思いが浮かんできて‥
僕は慌てて首を左右に振る‥とは言っても、ベッドに横になったままだから、ロクに振れないけど‥。
とにかく‥幾らショックな事があったからって、悪い方へと考えるのはよそう。
思えば、昨日一日僕は‥ずっと落ち込んでいて、みんなにも心配を掛けてしまった。
今日は‥うん、いつもの僕に戻って、そして‥。
‥いつもの僕‥か‥。
いつもの様に、お仕事して‥本を読んで‥みんなとお喋りを楽しんで‥そして‥
‥脳裏によぎるのは、キルクさんの事‥
それに連鎖するように、頭の中に浮かんでくる‥あの光景。
キルクさんと‥ケイトさんの‥‥ああ‥‥。
僕は必死になって思い出さないようにするけど‥嫌でも頭に思い浮かんでくるんだ。
僕の聞いた事の無い‥甘い声を出すキルクさん‥
気持ちよさそうな声を上げる‥キルクさん‥ああ‥‥
どうして‥どうして。
どうして‥‥キルクさん‥‥。
やっぱり僕が‥あの時、キスをはねのけたから?
あの時、僕がキルクさんのキスを‥受け入れていれば‥。
‥‥止めよう。
そんな事を考えたって、今は‥どうしようもない‥。
だけど‥‥だけど‥‥。
それでも脳裏に浮かんでくるんだ‥あの光景が‥
嫌だ‥もう、考えたくない‥あんな事‥思い出したくない‥!
思わず僕は上半身を起こして‥そして‥首を左右に振ってみる。
忘れたい‥忘れたい‥忘れろ‥忘れろ‥‥そんな風に何度も念じて‥でも‥
‥‥忘れられなくて‥
気がついたら、また‥僕の目からは涙が溢れていた‥。
ぽろぽろと‥涙が‥うう。
ダメ‥泣いちゃ、ダメだ。
こんな所、ヤダンにでも見られたら、また‥心配を掛けちゃう。
昨日だって、ずっと心配させて‥‥あ、ヤダン‥まだ目を覚ましてないよね?
僕は慌てて涙を拭くと、そっと‥隣で寝ているヤダンを振り返る。
ヤダンは‥まだ眠っているみたいで、静かに寝息を立てていて‥良かった。
‥とにかく‥今日はもう少しだけ元気になろう‥そう思っても、本当になれるものなのかは分からないけど‥
みんなに心配を掛けないようにしよう‥うん。
‥キルクさんの事は、今は‥今日は‥考えないようにしよう。
‥ちゃんと答えを出さなきゃいけない問題だけど‥今は置いておこう‥。
今は‥今だけは。
とりあえず‥今が何時なのか、確認しようかな。
昨晩は早くに寝たし、今はまだ早い時間だと思うけど‥とりあえずは。
そう考えて、僕がベッドから降りようとした時‥
「ん‥んん‥‥ふぁあああ‥‥」
ヤダンがそんな声とと共に、大きなあくびをして‥ゆっくりと身体を起こしてくる。
どうやらヤダンも目が覚めたみたいだ‥うん、まずはヤダンに元気よく挨拶‥だね。
‥心配させないように‥元気に。
「‥お‥おはよう、ヤダン。‥気持ちの良い、朝だね」
その時の僕は‥ぎこちないながらも、微笑みを浮かべて‥元気に挨拶ができた、と思う。
‥言葉はちょっと、白々しいかな‥なんて思ったりもしたけど。
「ん‥あぁ、おはよう、ピノ。‥良い朝だな」
最初はねぼけまなこを擦っていたヤダンだったけど‥
僕の言葉に、ぱっと目を見開いて。
そして‥嬉しそうに返事をしてくれたんだ。
これなら‥‥うん、これなら。
きっと大丈夫‥今日は大丈夫。
きっと一日、元気に過ごせる‥なんて、僕は思っていたんだけど‥
‥そんな僕の考えは、早々に崩れてしまったんだ‥。
「ふぅ‥ようやくお昼‥かぁ‥」
午前中の仕事をなんとか終えて‥僕はようやく一息つくことが出来た。
とは言っても、本当に一息ついている暇は無いんだ。
本当なら、昼食を食べている時間‥そんな時間まで、午前中のお仕事がずれ込んでしまって。
だから、食堂へも急いで行かなきゃいけないくらいなんだ。
‥それでも、昨日にくらべればどれだけマシか分からない。
昨日は‥ずっとショックを引きずっていて、全然仕事が手に付かなかった‥から。
それでもなんとか仕事を終えられたのは、ディル達の助けがあったから‥だよね。
でも、今日はそんな訳にはいかない。
気をしっかりもって、仕事を進めないと‥って思うんだけど‥。
僕自身が、まだ本調子じゃないのかな‥なんだか仕事が進まなくて‥。
いや‥本調子とか以前の問題だね‥そう、原因は調子じゃなくて他にあるんだ。
仕事の合間に‥いや、仕事をしている最中でも、ふとすれば‥頭の中に浮かんでくること‥。
それは‥キルクさんの事。
一昨日の銀河祭の顛末が、どうしても頭から離れないんだ‥。
考えている場合じゃない、仕事に集中しないと‥とは思っていても、
いつのまにか‥僕は考えてしまっているんだ‥。
‥あぁ、僕は‥
「‥ディル、ちょっとええか?」
またしても沈み込んでしまいそうな‥そんな意識の中で。
僕は声を掛けられたのを引き金に、はっと我に返ったんだ。
その声、そしてそのしゃべり方‥声を掛けてきたのが誰なのかなんて、すぐに分かるよね。
僕は咄嗟に笑顔を用意して‥ディルの方へと向き直ったんだ。
「あ、うん、何かな?ディル」
見ると、ディルは‥なんだかいつもと違う、真剣な表情をしていて‥。
‥やっぱり僕、いつもと違うから‥だからディルは心配して‥
‥いや、昨日と今日の仕事の進め方を、注意しにきたのかもしれない‥
なんて、いくつかの可能性を僕は考えたんだけど‥そのどちらでもなかったんだ。
「ああ‥いや、今日、仕事が終わった後、ちょっと時間くれへんか?」
仕事を終えた後に‥時間。
その真剣そうな表情からしても、「ユランのお店に寄っていこう」という話じゃなさそうだし‥
‥もしかしたら‥‥いや。
とにかく、僕に何か話がある、って事だと思うし‥
今日、仕事を終えた後は‥特に用事や約束だって無いし‥うん、大丈夫だね。
「うん、良いよ。それじゃあ、仕事を終えた後‥えっと‥」
「ああ、迎えに来るから、待っといてくれたらええ」
ディルはそう言うと、ゆっくりと自分の持ち場へと戻っていって‥
‥なんだかディルも、いつもと違って‥真剣そのもので‥。
あ、いや‥仕事中のディルはいつだって真剣だよ。
でも、普段お話をするときのディルは‥どことなく優しい表情をしていたものだけど‥
今日のディルは‥そう‥って、あっ!
いけない、僕のお昼御飯の時間が終わっちゃう‥早く食堂に行かないと。
ディルの事も気になっていたけど、それよりも‥と、僕は慌てて食堂に向かったんだ。
「あの‥また、仕事手伝わせちゃって‥ごめんね」
仕事を終えた後‥僕とディルは、二人揃って歩き出した。
‥どこに行くのかは分からないけど‥先行するディルの背中を追う様に、僕はてくてくと歩いていく。
そんな、歩き始めた中‥僕がディルに言った言葉がこれだったんだ。
‥そう、昨日に引き続き、今日も‥午後の仕事がなかなか終わらなくて。
そんな僕をディルが見かねて、手伝ってくれたんだ。
本当に‥いつもディルには迷惑ばかり掛けて‥ごめんね、ディル‥。
そんな僕の言葉に、ディルは顔だけをくるりと僕の方に振り向かせて‥
「ん‥いや、かまへん。誰でもそういう時はあるさかいにな」
いつもの微笑みを浮かべながら、そう言ってくれたんだ。
ああ、いつものディルだ‥いつもの、優しく微笑んでくれる‥ディルだ。
‥なんて、僕は感傷的に思ってしまって。
だって、今日は一日を通して、真剣な表情のディルばかり見ていたから‥
だから、こうして微笑んでくれるディルを見ると‥うん、なんだかとっても安心するんだ。
‥でも‥僕達が目的地に着いて、話を始める時には‥
きっとディルはまた、真剣な表情になるんだろうな‥。
‥一体僕は、何を言われるんだろう‥。
まぁ‥考えられる事は、幾つか‥あるけれど。
そんな風に考えながらも‥僕はディルの後ろをついていったんだ。
それにしても‥ディルはどこに行くつもりなんだろう‥?
「夕陽に染まる海‥かぁ‥」
その光景を見て‥僕は思わずそんな言葉をこぼしていたんだ。
ここはウィンダス港‥目の前には、夕陽色に染まる海が広がっていて‥とても綺麗だ。
‥昔、子供の頃は‥こうして海をじっと見た事もあったけど‥
いつからか、足を止めて海を見るなんて事‥無くなっていたかな‥。
「ボクもな、この海は‥よう見にくるんや。‥故郷の海と、よう似ててな」
ウィンダス港の一角‥人通りも少ないこの場所で。
ディルはそう言って、海を見つめている‥「懐かしいな」っていう顔をしながら。
僕も、そんなディルの隣に立ちながら‥同じ様に海を見つめていたんだ。
「なぁ、ピノ‥辛い時‥悲しいときはな、泣いたらええんやで」
「えっ‥」
海を見ている僕に対して、突然‥ディルはそんな事を言ってきて。
僕は慌てて‥ディルの方を見たんだけど‥。
‥その表情は、いつの間にか‥真面目な顔に変わっていて‥
ディル‥‥。
「ボクにはな、昨日今日と、ずっとピノが泣いてる様に見えるんや‥。
泣きたいのに、泣きとうてたまらんのに‥それをぐっと堪えて、辛そうにしてる‥そんな風に見えるんや」
僕が‥泣いてる‥?
そんな‥そんな、そんな事を言われても‥僕は‥。
‥僕は何も言えない‥。
そうだよ‥なんて言えないし‥泣いてなんかないよ‥‥っていうのも‥何だか違う様な気がする‥
だから、僕は‥‥僕は、何も言えない‥。
何も言えず、俯いている僕に、ディルは‥すっと身体の向きを変えて‥
‥そう、僕の方を向いて‥言ってきたんだ。
今度は‥とても優しい表情で。
「でもな‥そういう時は泣いたらええんやで」
「ディル‥」
そんな‥泣いたらいい、なんて言われても‥。
僕は‥僕は‥‥泣いちゃだめだ、ってずっと‥思ってたのに‥。
みんなに心配を掛けるから‥
みんなを困らせるから‥
泣いちゃ‥だめだって‥
僕は‥必死で‥我慢して‥
そう考えていたのに‥でも、ディルは‥。
‥ディルの言葉に、僕の中の‥何か‥涙を抑える何かが、壊れていく‥
身体の中の涙が‥徐々に込み上がってくるのが分かる‥
でも‥‥でも‥‥
「涙はな、雨‥なんや。‥目から溢れる雨‥それから‥心の悲しみを、辛さを流してくれる‥雨。
泣いて‥悲しみを、辛さを‥流したらええねん。‥それが、過去になって‥いつかは思い出になる、それまで‥」
雨‥涙は‥雨‥悲しみを‥辛さを‥流してくれる‥雨‥。
悲しみ‥‥辛さ‥‥
‥‥キルクさん‥
キルクさん‥‥どうして‥‥どうして‥‥。
僕は‥頭の中が‥もう、あの時のことで一杯になってしまって‥
‥気がついたら、声を出して泣いていたんだ‥。
俯きながら‥延々と涙を流す僕‥。
ディルの言う通り、まるで雨の様に‥。
そんな僕を‥ディルはそっと‥肩を抱いてくれて‥。
そんなディルの優しさに‥甘えるように。
僕はディルの胸に‥顔を埋めて泣いたんだ。
ディルもまた、顔を埋める僕の‥その背中に手を伸ばして、包み込んでくれて‥。
‥ディルの身体が‥手が‥温かかった‥
ディルの触れる場所全てが、とっても‥温かくて‥
「泣いたらええ‥気の済むまで泣いたらええんや‥」
声を上げて泣き始めた僕を、ずっと抱いていてくれたディル‥。
優しい声、優しい言葉だって掛けてくれて‥。
僕は‥ディルの言葉に甘えるように、ずっと‥泣いていたんだ‥。
5分‥10分‥もっと長く‥‥いや、もっと短かったのかもしれない。
ずっと泣いて‥泣いて‥泣き続けて。
ようやく涙が収まりかけてきた頃に‥僕はディルの胸から少しだけ顔を離した。
そして、ちょっと痛くなった目元を撫でて、涙を拭ったんだ。
多分、目が真っ赤になっているんだろうけど‥まだ、俯いたままだし‥見えてないはずだよね。
「ご‥ごめんね、その‥みっともないところ、見せて‥」
僕は、真っ赤になった目をディルに見せないように‥俯いたままでつぶやく。
‥いや、違うよね‥これだけ恥ずかしいところ見せたんだもの‥もう、恥ずかしい事なんて無いよね。
僕は言葉を言い終えた後で、ゆっくりと顔を上げて‥ディルの方を見たんだ。
そうしたら‥思いの外ディルとの距離が近くって、びっくりしちゃった。
ディルもそれは同じだったみたいで、慌てて‥僕の身体から手を放して。
ふふ‥ディルってば、今になって‥照れたように顔を赤くしてるんだから。
‥でも‥ディルの言う事は本当だね。
たっぷり泣いたお陰で、少しだけ‥うん、全部じゃないけど、少しだけ‥
心の中から「悲しい思い」「辛い思い」が‥流れたような、そんな気がする。
「そ、そんな‥みっともない事なんて無い。
ボクの事を、ピノが友達や思てくれてるから、せやから‥泣いてるトコを見せてくれてるんや。
そう思うと、ボクは嬉しいんやよ。‥こんなん言うたら、泣いてるピノに不謹慎やけどな‥」
照れながらも‥そんな優しい言葉を掛けてくれるディル。
友達‥友達だから‥かぁ。
うん、そうだよね‥僕達、大事な友達同士だから‥だから‥
「ふふ‥ありがとう‥ディル‥」
僕は‥ようやく笑顔を見せて、ありがとう‥って言う事が出来た‥と思う。
‥まだ、本当の笑顔じゃない‥いつもの60%位の笑顔だけど、それでも‥。
でも、ふと見たディルの顔は‥もう、照れている顔じゃあなかった。
また‥真面目な顔になっていたんだ。
‥まるで「まだ話す事がある」とでも言うかのように。
「なぁ、ピノ‥‥その、蒸し返すようで‥悪いんやけど」
真面目で‥真剣な表情のまま‥
勿論、声だって真剣そのもので‥ディルは話し始める。
その言葉に、ディルもあまり話したくはなさそうな‥そんな類の話だという事は、察しが付くけど‥
具体的にどんな話なのかは、勿論分かる筈も無くて。
一体、何だろうと考えながら‥僕はただ、じっと‥何も応えずに、ディルの次の言葉を待った。
「その‥良かったらな、話してくれへんか‥?ピノの‥悲しい事、辛い事。
ボクは、ピノが‥まだ何か大きいモン抱えてる様に思うんや‥。
さっきの笑顔にしても、なぁ‥まだいつもの笑顔やない‥そう思うから‥」
ディル‥よく見てるんだ‥僕の事。
その‥正直言ってびっくりしちゃった‥だって、さっきの笑顔の事まで、分かっちゃうなんて。
でも、その‥僕の‥‥悲しい事、辛い事を‥話すなんて‥。
悲しい事、辛い事‥‥勿論それは‥‥キルクさんとの事で‥
ディルの言う通り、僕の心の中でまだ「重い記憶」として残っているものだ‥。
でも‥でも、それをディルに話すなんて‥
そんな‥‥事‥‥
‥‥‥ううん。
ディルなら‥‥ディルになら。
話しても良いんじゃないかな‥。
こんな事を話すのは、恥ずかしくて‥本当は誰にも言いたくなんて無い事だけど‥
それでも‥‥‥それでも‥‥。
ディルの言う通り、話す事で‥少しは楽になれるのかも知れない‥。
‥心の整理がつくのかもしれない‥。
そんな風に、思ったから‥
‥‥だから。
僕は決心して、ゆっくりと‥話し始めたんだ。
僕が、キルクさんと付き合っていたこと‥
銀河祭の日も、キルクさんと一緒に過ごして‥
‥でも、色々とあって‥結局、キスを求められても拒んでしまったこと‥
謝ろうと、鼻の院に行って‥そこで‥
‥キルクさんと、別の人との‥えっちを見てしまったこと‥
淡々と‥僕は話したんだ‥。
勿論、話している間に、振り返って‥色々と思うことはあったけれど。
‥さっきあれだけ泣いたから、かな‥悲しく思うことは無かったんだ。
ううん、むしろ‥ディルに聞いて貰って、心がラクになった様な気さえする。
本当に‥ディルの言う通り、だね。
一方のディルは‥何も言わずに、僕の話を最後まで聞いてくれて。
そして‥最後に言ってくれたんだ。
「そう‥やったんか‥‥ピノ‥辛かったやろうな‥。
‥ごめん‥ボク、あれだけ格好付けた事言うといて、何やけど‥‥上手い言葉が‥見つからんねん‥」
僕の話を聞いて‥色々と感じた事もあるんだと思う。
最後には俯いたまま‥優しくそう言ってくれたディル。
まるで僕の気持ちを分かってくれている様に‥とても悲しそうな声‥申し訳なさそうな声で。
ディルは‥辛そうに「何も言えなくてごめん」なんて言ったけど‥ううん、それは違う。
‥あんな話を聞かされて、びっくりしただろうから‥すぐに浮かんでくる言葉なんて無いだろうし、それに‥
「ううん‥いいんだ。ディルに話しただけでも‥楽になったんだから」
‥僕はディルに話を聞いて貰って‥本当に心が楽になったんだ。
これは嘘じゃない‥少しだけ‥ううん、沢山の‥心の中の重みが取れた様な、そんな気がして。
でも‥‥
「そう‥か」
楽になった一方で、少し‥少しだけ、気がかりなことがあって‥。
それは‥‥うーん‥‥
‥うん、やっぱり聞こう‥聞いてみよう。
「うん‥‥でも、ディルは、その‥」
‥聞こうと思ったのは良いけど‥
やっぱり僕には意気地が無いや‥肝心な所で、声が出て来ないんだから。
「うん‥?どないしたんや?」
ディルは‥再び顔を上げて、僕の方を見つめてきたんだ。
その表情は、心配そうな顔をしていて‥
うん、もう一度‥気持ちをしっかり持って、ディルに話そう‥うん!
「‥ディルは、今の話を聞いても、僕の事‥友達だと思ってくれる‥?」
僕の‥心配したこと。
それは、もしかしたらディルが僕の事を‥気持ち悪く思って、離れていってしまうんじゃないか‥って事。
だって‥だって、僕は‥
「え?どういうこっちゃ‥?」
心配している僕を余所に、ディルは気がついてないのか‥不思議そうな顔をして、首をかしげている。
‥気がついてない‥いや、気にしないでいてくれてるのかな‥
だったら‥‥いやいや、ちゃんと言っておこう。
「その‥僕、男の人と付き合ってたんだよ?‥それでも、僕の事‥」
そう‥僕がキルクさんと付き合っていた事‥つまり‥
僕は男の人‥同性と付き合っていた事になる。
‥そういうのって、やっぱり‥気持ち悪がられないかな‥って思って‥。
でも、僕が‥言葉を終える前に。
そう、ディルに「それでも僕の事、友達と思ってくれる?」って‥言う前に。
ディルは答えてくれたんだ。
「‥なぁ、ピノ。人が人を好きになるのは、自然の事や。‥例えそれが、異性であっても‥同性であっても。
せやから‥別にそんな事はどうでもええねん。どっちであれ、ピノはピノ‥やろ?」
最初は真剣に‥そして徐々に、優しく微笑み始めて‥
そんな‥そんなディルの言葉に‥そして笑顔に‥
僕は嬉しくて‥また涙がこぼれそうになってしまう。
‥勿論それは、うれし涙だけど‥ふふ、ちょっと泣き虫すぎるよね、僕。
だから今は‥ちょっとだけ涙を堪えて。
代わりにちゃんと‥お礼を言おう。
「‥‥うん‥ありがとう、ディル‥本当に‥本当に‥」
‥友達に‥大事な‥大事な友達に。
「ほら‥たっぷり泣いて、疲れたやろ?‥ちょっと時間遅うなったけど、ユランの店でも寄っていこか?」
「‥うん!」
涙を堪えて「ありがとう」を言う僕に‥ディルはいつもの笑顔で話し始めたんだ。
いつものディルの笑顔。
いつものユランのお店。
いつもの‥二人並んで歩く道。
ああ‥いつもの‥いつもの僕達に戻れた‥そんな気がして。
その時‥僕は‥久しぶりにいつもの笑顔を出せたんだ。
‥‥でも‥‥
でも、そんな「いつも」の中に‥少し‥そう、少しだけ。
少しだけ、「いつもじゃない」ものが混ざり始めていたんだ。
それは‥少し前に僕が感じた感覚。
僕の背中に、温かなディルの手の感触があって‥
更にはお腹や、顔の方にも、ディルの温かな身体の感触があって‥
温かさに‥そして優しさに‥‥包まれている様な感じ‥
そんな感じが、ずっと‥今でも身体に残っているような、そんな‥
‥って、ぼ、僕、何を考えてるんだろう‥
本当に‥‥もう‥。
「あ、ディル‥それにピノ!こっちだヨ、こっチ!」
ユランの勤めているお店に入ってすぐに。
フリストの驚きと‥そして嬉しそうな声が聞こえてくる。
僕とディルはフリストの座るテーブルの方へと向かって‥あ、ユランも一緒みたいだ。
そうか、いつもよりも遅い時間だし‥ユランはもう、仕事の終わる時間なんだね。
「やっ、フリスト‥それにユランも」
僕はいつものように、手を挙げて挨拶をすると‥にっこり二人に微笑んでみる。
‥でも、二人は顔を見合わせて、不思議そうな表情をしてる‥まぁ、仕方無いかな。
昨日二人と会ったときは、あんな状態だったもんね‥。
でも、今はもう大丈夫‥って、どうやって説明しようかな‥なんて僕が考えている間に。
「ピノ、座って待っといてや。ボクがケーキとか買うて来るさかいに」
ディルはそう言うと、さっさとケーキの並んでいるディスプレイの方へと行ってしまったんだ。
折角のディルの好意だし、僕は甘えることにして‥テーブルに着いた。
‥さて、座ったのは良いけど‥なんて言おうかな‥どこからどこまで言おうかな‥。
「えっと‥」
「ね、ピノ‥元気になったならさ‥ぼくはそれで良いんだ。‥言い辛い事とか、言わなくていいんだよ」
とりあえず‥と、話を切り出そうとした僕に。
すかさずユランが言葉を遮って‥そんな事を言ってきたんだ。
‥いつもの様に‥ううん、いつも以上に優しい言葉で。
更に‥
「そうそウ!オイラも‥ピノが元気で居てくれたら良いんダ。それだけで‥サ」
フリストだって、嬉しそうに‥そう言うんだから‥参っちゃうな。
僕‥優しい友達に囲まれて‥僕‥本当に幸せだ‥。
「‥ごめんね‥心配してくれて‥。‥ありがとう、ユラン‥フリスト」
泣き虫の僕は、また涙をこぼしそうになるのを‥なんとか堪えて。
‥「ありがとう」って言う僕に‥二人は優しく微笑んでくれる。
本当に‥僕は‥‥
「あ、そうだっタ!‥もう、要らないかもしれないけどサ‥」
感傷に浸る僕に‥フリストはまるで何かを思いだしたかのように、そんな声を上げて。
そして‥脇に置いてあった鞄を取り出すと、なにやらごそごそ‥と鞄の中を探し始めたんだ。
鞄の中から、一体何が出てくるんだろう‥そんな事を考えながら、フリストの様子を見ていた僕。
ややあって、フリストは‥一冊の本を取り出したんだ。
‥少し古めだけど、どことなく高級そうな‥そんな本を。
「あのサ、ピノ‥‥良かったら、これ、あげるヨ。‥これを読んでサ、元気になってくれたら‥って思ったんだけド‥。
ふふ、もう元気になったみたいだし、要らないかもしれないけどサ」
フリストはそう言うと、その本を僕に手渡してくれて‥
‥その表題を読んで、僕は本当にびっくりしたんだ。
「え‥えええっ‥‥ふ、ふ、フリスト、これって‥!」
僕が思わず‥声を裏返す位、驚きの声を上げた書物‥それは‥
あ‥その前に、少しだけ説明するね。
エニッド・アイアンハートと‥グィンハム・アイアンハート‥という人物は知っている‥よね?
エニッド・アイアンハート‥各地の地図を作成し、地歴書を残した人物で‥僕も彼女の本は、結構読んだことがある。
で、その父グィンハム・アイアンハートも‥娘が各地の地図を作成する以前に各地を回り、地図を作成していた人物だ。
専らグィンハム・アイアンハートはクォン大陸の地図を作成し‥
その意志を継いだエニッド・アイアンハートが、ミンダルシア大陸の地図を作成した‥って事で有名だね。
そんなグィンハム・アイアンハートは、若かりし頃‥東エラジア社の外洋交易船、その船長としても名を馳せている。
その船長時代にあった、波瀾万丈な冒険の数々が記された書物‥それがフリストの持っていた書物だったんだ。
しかもこの書物、クォン大陸・ミンダルシア大陸にある四国では‥まず手に入らない。
理由は知らないけれど、発禁処分を受けていて‥目の院の図書館にすら無いくらいなんだ。
‥でも、どうしてそんな本をフリストが持っていたんだろう‥?
「すごい‥僕、初めて見たよ‥。けど、フリスト、これをどうやって手に入れたの‥?」
不思議そうに尋ねる僕に‥フリストは「うーん」と少し考えると、思い出しつつも話をはじめたんだ。
「‥ん‥オイラはサ、兄さんに貰ったんだヨ。
確カ‥そうそウ、以前にアトルガン皇国の方で過ごしていた時に、手に入れたんだっテ。
なかなか面白いかラ‥って言って、くれたんダ」
なるほど‥フリストのお兄さんは、冒険者をしてる‥って言ってたっけ。
冒険者なら、アトルガン皇国の方にも行けるだろうし‥そうなると‥って訳かな。
よくよく見ると‥本の装丁とか、紙質に‥アトルガン地方の特徴が出てる。
‥それはともかくとしても、フリストがこうして大事にしている本‥貰っても良いのかな‥。
普段フリストはあんまり口にしないけど、フリストの「お兄さん」を思う心は‥なんとなく分かる。
‥「お兄さん」の話をするときは、本当に嬉しそうにしているものね。
そんな大事なお兄さんに貰った、しかも大事な本を‥‥うん、やっぱりダメだよ。
「そんな大事な本、僕は貰えないよ‥」
「‥ん~、でモ、オイラはピノに元気になって欲しくってサ‥‥あ、でももう元気なのカ‥あ~、でモ‥」
やんわりと断る僕に‥フリストも少しだけ困った表情を見せる。
加えて、当初思っていた「僕の状態」が今の状態とは違う‥
でも、やっぱり僕に渡したいような、そんな気持ちもある‥のかもしれない。
‥そりゃまぁ、僕だって読みたい事は読みたいけど‥
でも‥‥うーん、どうすれば‥。
一体どうすればいいのか、僕が考えていた‥その時。
「ね、ピノ、フリスト‥それじゃあさ、フリストがピノに本を貸す、っていうのはどう?」
そう声を掛けてきたのが‥ユランだ。
なるほど‥貰うんじゃなくて、あくまで少しだけ貸して貰う‥と。
そうすれば、僕だって本を読めて、元気になるし‥いや、もう元気なのは元気だけど‥
とにかく、読んだ後はフリストに返すから、フリストだって大事に持っていられるし。
凄い、ユラン‥とっても良い考えだね!
「ン、それ良い考えだナ。そうしよウ!」
「うんうん!ユラン‥とっても良い考えだよ。ふふ、僕、楽しみに読ませて貰うね」
ユランの提案に、僕は勿論‥フリストも乗り気みたいで。
僕とフリスト‥そしてユランも、良い案が見つかったことで‥三人そろって笑っていたんだ。
「ん‥なんや、ごっつ楽しそうやな」
三人の笑い声が重なる中‥丁度ディルがトレイを手にやってきて。
まるでウェイターさんの様に、僕の前に白いケーキと‥そしてオレンジジュースを置いてくれる。
目の前に置かれたケーキは‥あれ、これは‥新作なのかな?今まで見た事無かったと思うけど‥
「これは‥何のケーキかな?僕、初めてみたけど‥」
僕はそう言いながらも、置かれたケーキをじっくりと見てみる。
一見すると普通の‥そう、ガトーオーフレースの様なケーキ‥だけど。
スポンジを覆っているのは生クリームじゃないようだし‥その‥‥イチゴだって載ってないし‥。
うーん、スポンジの周りに薄く‥まるでチョコレートケーキの様に、「何かのソース」が掛かってる‥。
あ、でも‥色が白いし、香りもどことなくチョコレートじゃない‥し‥。
‥何だろう?
「あっ、ディル‥それを選ぶなんて流石だね。
ピノ、それは一昨日の‥銀河祭限定‥いや、もう限定じゃ無くなったけど‥とにかく、新しいケーキだよ」
ユランの言った「銀河祭」という言葉に‥思わず「あっ」って思ったけど‥
不思議‥自分で思うほどには気になっていないみたい。
もう‥あの時の事を瞬時に思い出すことも無いし‥。
ふふ、これもディルのお陰だね‥って、それよりも。
新しいケーキ‥かぁ‥
新しいケーキを、色々な角度から見つめる僕に‥
ユランはケーキの説明をしはじめたんだ。
「銀河祭‥その由来の舞台になった「河」‥勿論、空の星々だけど‥あれって、今のぼく達は「ミルキーウェイ」って呼ぶよね。
それになぞらえてね‥ケーキにふんだんにヨーグルトソースが掛かっているんだよ」
なるほど‥ミルキーウェイ、ミルクの道‥だから、ミルクから出来たヨーグルトをソースとして‥かぁ。
でも、ヨーグルトって‥イメージ的には酸っぱいような気がして‥
‥ケーキに合うのかな?
「ふふ、このヨーグルトケーキは‥甘いモンが苦手のボクでも、食べられたんやで‥‥少しやけど」
そう言うディルの方を見ると‥あっ、ディルも僕と同じケーキを持ってきてる。
‥そうかぁ、ディルでも食べられる‥しかも、こうして再び食べようとしている、となると‥
甘さはともかくとしても、ふふ‥味は良さそうな気がするなぁ。
「じゃあ‥早速‥いただきます!」
僕はきちんと両手を合わせて、「いただきます」のポーズを取ると‥
フォークでヨーグルトケーキを少しだけ崩して‥口の中へと運んだんだ。
‥口の中に広がる、ヨーグルトの酸味と‥スポンジの優しい味。
上手く表現できないけど‥その美味しい味は、僕の心をとても‥満たしてくれたんだ。
‥ううん、ケーキだけのお陰じゃないよね。
元気づけるために、本を僕に貸してくれたフリスト。
元気がでるから、と‥スィーツを勧めてくれたユラン。
そして‥‥僕の心を優しく包んでくれた‥ディル。
‥フリスト‥ユラン‥‥ディル‥
みんなの温かな思いのお陰で僕の心は‥‥もう‥もう、大丈夫。
‥ありがとう‥‥みんな、本当に‥ありがとう。
「ふふ‥そうだね、もう少しで‥‥あ」
ユランの勤めているスィーツショップからの帰り道。
三人でお喋りをしながら、星芽寮にたどり着いた僕達は‥
いつもの様に、玄関口に設置されたポストを見る。
‥僕の部屋のポストに手紙があるのを見つけた僕は、そっと取り出して‥思わず息をのんだ。
てっきり、ディルに届いたいつもの手紙‥そう、彼女からの手紙かと思ったんだけど‥
‥違ったんだ。
それは僕宛の手紙で‥そして‥‥
‥‥キルクさんからの手紙だった。
きっと、僕はその時‥なんとも言えないような、複雑な表情をしていたんだと思う。
そして、じっと‥手紙を握りしめていたから‥
「ん?どないかしたんか、ピノ?」
僕の事をきっと不審に思ったんだろう‥
ディルが横から、僕の顔を覗き込む様にして‥尋ねてきたんだ。
そんなディルの声に‥僕はハッと我に返って。
そして‥
「あ‥う、ううん、なんでもないよ。さ、部屋に戻ろう」
僕は慌てて誤魔化すようにそう言うと、なんでも無いフリをしながら‥
先頭を切って、部屋への道を歩き始めたんだ。
‥部屋に戻ると、幸いにも‥ヤダンの姿は無かった。
窓から見える時計台を見て‥なるほど、この時間ならきっとランニングの最中だろう。
まだ‥ヤダンが戻ってくるまでに(いつも通りなら)時間はある。
だから‥‥だから。
僕は片手に握りしめた手紙に‥そっと視線を落とした。
この手紙には、何が書いてあるんだろう‥。
‥でも、何が書いてあっても‥僕の心はもう‥。
そうだ、僕の心はもう決まっている‥決まっているんだ。
あの‥ディルと話をした、その時から。
でも‥
「‥でも、読まない訳にはいかない」
部屋には誰も居ない‥勿論、誰に言う訳でもない‥
それでも、口に出して言う事で‥自分に言い聞かせるようにして。
僕は、机に向かう間も惜しい‥とでも言うかのように、扉にもたれたまま‥手紙の封を開けた。
‥中には‥羊皮紙が一枚。
おそるおそる‥震える手でそれを取り出して‥そして‥
‥僕は文面を読み始めたんだ。
親愛なるピノへ。
この様な形で告げるのは、本意ではないけれど、僕達の関係を終わりにしよう。
そもそも、そこまでの間柄でも無かったのかもしれないが、区切りは付けたいと思っている。
僕はもう、星芽寮に戻る事も無い。これは互いにとっても好都合だろう。
では、ピノに幸あらんことを。 キルク・ラトクリク
あまりにも‥想像通りの内容‥でも、簡潔すぎる文面。
その内容に‥僕は思わず、ほっと一息を着いた。
‥不思議と悲しみとか‥怒りとかの感情はこみ上げてこない。
ただ、なんとなく‥‥いや、良いんだ。
僕は手紙を手に、自分の机へと向かうと‥
‥そっと引き出しの奥に、その手紙をしまい込んだ。
もう見る事も無いかもしれない、でも‥なんだか捨てる気にもなれなくて。
そして‥机に座った途端‥疲れがどっと押し寄せてきたような、そんな感覚が僕を襲ったんだ。
仕事の疲れ‥生活の疲れ‥そして‥‥恋の疲れ。
当分‥もう当分は‥
‥恋なんてしなくてもいい‥
なんとなく‥僕はそんな風に思い始めていたんだ。
それから数日経ったある日、フリスト経由で‥キルクさんがアトルガン皇国へと渡った事を知った。
アトルガン皇国で、調査員として‥数年間といった長期の在住勤務に就いたんだとか‥。
‥もしかしたら、キルクさんはそれを知って、事前に‥‥
‥‥いや、もう過ぎ去ったことなんだから‥。
だから‥‥
‥さようなら、キルクさん‥。
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